【音静庵】
 
礼儀正しく慎ましく…そして自分らしく
 


被災者の自立支援

ガ島通信さんのBlogの中で、考えさせられたことがあります。 それは、私の住んでいる地域(町会毎)で行われている「災害時について」という市主催の勉強会に出席した母の感想とも重なったことがあるからでしょう。

災害に遭った当座は仕方が無いとして、1日2日と経ても、すべてのことを行政・ボランティアに頼ることが多いということです。ボランティアは、なんでも屋さんではなく、あくまでも、災害復旧への手助けに来てくださるのに、屎尿の処理等いわゆる「汚れ仕事」を押しつけて、尚かつ文句・苦情を言いつのる災害者がいるということだそうです。

人間は、災害に遭う・遭わないを別にして、日常の生活は自己完結しているのです。なぜに、災害に遭ったからと言って、特定の避難所にいることで「上げ膳・据え膳」をしても貰わなければならないのでしょう?

この地震・台風災害に遭いやすい日本に住んでいる私たちは、災害を避けて通る訳にはいきません。災害にあった時に、被災者としてどう自立したら良いのか・・・平時から考えておかなければならない課題だと思います。


http://blog.livedoor.jp/zentoku2246/archives/8991211.html
・・・11/7付け 取材の現場から 6・・・ 引用 ・・・
まず、阪神大震災の経験からいって、被災者には大きく分けて3タイプの人が今後出てくると思う。①苦しいながらも自立しようと努力する人。②がんばってはいるが自立できず助けが必要な人。③自立できるのにしようとしない人。

問題はこの③に人に、ボランティアは過剰に支援をすることだ。何故こんなことをいうかというと、私は神戸市で被災し、まだボランティアと呼ばれる前から自分たちのいた避難所トイレのウンコのくみ出しをはじめ、その後東灘区のボランティアセンターでボランティアをした。当時を振り返り反省点は多くあるがその中でも「ありがとうボランティア」による被災者乞食の増加をいまでも悔やんでいるからだ。

ボランティアでやって来た人は何を満足感とするかといえば、被災者の役にたったということを第一とする。これは決して悪いことではない。しかし、多くのボランティアは、せいぜい1日か数日しかいない。彼らにとって長期にわたって支援する活動はできないので、この満足感を満たすためには、炊き出しや掃除、水汲みなど簡単に被災者に直接「ありがとう」といってもらえる仕事に人気がでる。また、ボランティアをコーディネートする側にとっても、このような簡単な仕事は割り振りやすく、またニーズも多いため人員をさいてしまう。そうしているうちに、被災者のなかに「してくれるのがあたりまえ」「ボランティアなんでしょ?」という甘えも産まれてくる。

ここで考えて欲しい。テレビや新聞を見ていて皆さんは疑問に思わないだろうか?被災しようがしまいが、一日の食事は自分で食べるということを。

災害初期で近所の店舗もなくまた、ライフラインが寸断されたもとではやむえない。が、例えば小千谷総合体育館の前では業務用スーパーが営業し、裏にはコンビニもある。近くにはラーメン屋にそば屋、20分歩けばジャスコやホームセンターが営業している。家が住めないのは気の毒だが、この状況下で自衛隊がべったりはりついた手厚い炊き出しがあり、支援物資が余剰になっている。この暖かい食べ物を自分たちの持ち出して生活している小規模避難所にもっていけないのか?先日も、曙はボブサップが大規模避難所で炊き出しボランティアをしたらしい、こういうものが「ありがとうボランティア」の典型例でしかない。これなら、この大規模避難所で興行をやったほうがまだまし。そして次の興行の全額を寄付のほうが被災地に役に立つだろう。





11/12(金)15:29 | トラックバック(0) | コメント(0) | ◆ 時事 | 管理

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